人間科学ニュース

2017年5月号(第209号)

鉄道労働科学から人間科学へ

 「人間科学ニュース」をご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。本誌は、弊研究部の前身である鉄道労働科学研究所(鉄道労研)で昭和42年6月に「鉄道労研ニュース」として発行されて以来、お陰様で50年間継続してくることができました。

 50年前の創刊号を振り返りますと、鉄道労研が設立された経緯の説明から始まりまして、当時の研究の話題が掲載されています。鉄道労研には7つの研究室がありましたが、そのうち労働生理研究室から「新幹線電車運転における負担と疲労について」、労働心理研究室から「指差喚呼の効果について」、労働病理研究室から「硝酸洗い作業の労働衛生対策」と題した3つの話題が紹介されています。これらのタイトルには時代背景を彷彿とさせるものがあります。

 旧国鉄が民営化され、昭和61年12月に鉄道総合技術研究所が設立されて鉄道技術研究所、鉄道労研、宮崎浮上式鉄道実験センターなどの業務を引き継ぎました。この時、本誌は一旦「労働科学ニュース」と改称され、さらに、4年後の組織改正で、鉄道労研の業務を引き継いだ担当部署名が人間科学研究部となったのを機に、本誌も現在の名称となりました。ここで、労働科学から人間科学へと変わったのは単なる名称の変更ではなく、今後ますます重要となる人間の問題を幅広くとらえていこうという志が込められています。本号は今年度の最初の発刊号となりますことから弊研究部の4つの研究室の活動計画を載せておりますが、その内容は今の人間科学を表しているとも言えるのではないかと思っております。

 「人間科学ニュース」では人間科学に関係する知見や活動を中心に、わかりやすく、ためになる話題を心がけてまいります。引き続き御愛顧のほどよろしくお願いいたします。

(人間科学研究部長 小美濃幸司)

平成29年度の活動計画(安全心理)

 私たちのグループは、ヒューマンエラー事故の防止を目指して、鉄道従事員の心理的な資質や職務能力、これらに影響するさまざまな条件などを明らかにし、適性検査や作業環境整備、教育・訓練などに役立てるための研究を行っています。

○意思決定スキル

 昨年度は、作業後に再確認するかどうかを判断する場面など、意思決定エラー(判断ミス)が発生しやすい作業場面を抽象化したパソコン課題を、3種類開発しました(図1)。そして、課題実施中の脳内のようすを測定して、妥当性を検証しました。

 今年度から新たに3年間のテーマを開始します。本年は、意思決定エラーの事例や文献調査等を通じて、意思決定スキルモデルの試案を作成します。そして、意思決定スキルの一部を評価可能なパソコン課題の試作を開始します。

○コミュニケーションエラー防止手法

 復唱や確認会話はコミュニケーションエラー対策として広く行われています。

 昨年度、鉄道事業者および鉄道関連事業者を対象に行ったアンケート調査からは、特に確認会話の実施方法が作業内容や作業環境(対面での指示なのか、無線や電話など非対面の指示なのか等)によって異なる様子や、訓練方法が定まっていないことが明らかになりました。

 そこで、復唱および確認会話のやり方やポイントを学習するための教材と、これを用いた訓練手法を開発しました。また、復唱や確認会話を効果的に行うには「何を確認すべきなのか」ということに気づく能力が必要です。この能力を向上させるための訓練手法も開発しました。そして、これら2つの訓練の有効性を確認しました。

 今年度は、様々な作業内容や環境に応じたコミュニケーションエラー防止対策や、コミュニケーションエラー防止教育を行う際の参考になり得る情報をより詳細に収集します。まず、復唱や確認会話について積極的に取り組んでいる事業者や、特徴的なコミュニケーションエラー防止対策を行っている事業者を対象として、調査やヒアリングを実施します。また、他業種の取り組みの文献調査等も行います。

○先取喚呼による速度超過防止法

 先取喚呼は、運転に重要なことや忘れてはいけないことを声に出しながら運転する方法で、イギリスの鉄道界では有名なヒューマンエラー防止法です。

 昨年度は、実験により先取喚呼に失念防止効果があることを確認しました。

 今年度は、さらに実験を行い、より効果的な先取喚呼の方法について検討します。また、運転シミュレータを用いて実際の運転士に試行していただくための、課題設定等の準備を行います。

○踏切事故防止のための情報提示

 昨年度は、高齢ドライバーの滞留要因として、非常ボタンを押したのち、踏切内に戻る傾向が若年者より高いことなどを明らかにしました。

 今年度は、把握した滞留要因に対して、踏切に設置できる設備によって、自動車ドライバーに情報を提示する対策について検討します。進入タイミングが適切になったり、遮断かんに閉じ込められた際によい対処ができるようになるために、どのような情報を、どのようなタイミングで提示すべきかを検討します。

○危険感受性訓練

 今年度から実施するテーマです。事故防止のためには、作業員の危険感受性(危険源への気づきやすさ)を高めることが有効です。今年度は、危険源への気づき向上訓練課題案を試作する予定です。現在あるKYTなどの危険感受性訓練をベースに、改良を検討します。

○海外での発表

 以下の2件について研究発表を行う予定です。

・意思決定スキル評価手法

  Twentieth Conference of the European Society for Cognitive Psychology(ESCoP)

・事故のグループ懇談手法

  Fourth UIC World Congress on Rail Training

(安全心理グループ 井上貴文)

平成29年度の活動計画(人間工学)

 人間工学グループでは、“安全”や“快適・便利”の視点で、“鉄道を利用する人”と“鉄道で働く人”の環境の向上を目指し、人間の形態・運動・生理・心理・行動などの特性を調べ、評価手法や改善方法を提案しています。以下、平成29年度に取り組む主な研究の概要をご紹介します。

「安全・安心」の視点の研究

(1)列車事故時の車内安全性評価

 万が一、事故などにより車両に衝撃があったときの被害軽減を目的としています。衝撃加速度、車内設備のレイアウト、乗車姿勢などの条件の違いによる乗客への影響を、シミュレーション、衝撃試験により評価し、重要な条件を探索し、安全対策を検討します。

(2)生理指標による運転士の状態モニタリング

 運転士が良好な運転パフォーマンスを維持できるように支援するシステムの提案を最終目標としています。そこで、まず、人の心的動揺時の脳内状態を客観的に捉えるため、脳活動の計測に挑戦しています。

(3)運転士の眠気検知技術の開発

 画像処理技術等を用いた、運転士の眠気状態を推定するシステムの開発を最終目標としています。眠気を検知して即座に警報を出す、運転台組込み型装置の基本設計の提案を目指します。

(4)運転訓練

 運転士が前方注視により異常事象をいち早く発見できれば、その異常に起因する事故の回避や被害の抑制が期待できます。本研究では、運転中の視線の動きを計測して運転シミュレーター訓練における活用法について提案します。

(5)運転データの解析

 本研究は、運転データを分析して、より効果的に事故防止や技量向上に繋げることを目的としています。そこで、まず、運転データから、運転取り扱い誤りと関連する評価指標を抽出し、事故防止などへの活用の仕方について検討します。

(6)車両とホームの隙間通過時の旅客の挙動の把握

 車両ドアとプラットホームの間にある隙間に乗客が転落することがあり、この対策が求められています。本研究では、実態の把握、隙間通過時の旅客の挙動に関する実験を通して、対策の提案につなげます。

(7)踏切通行者の安全性向上

 踏切を通行する歩行者を対象とし、踏切警報音などを工夫することで、警報開始後の踏切への進入を抑制する方策について実験的検討を行い、踏切の安全性向上に寄与することを目指しています。

「快適・便利」の視点の研究

(8)車内温熱環境の評価

 鉄道車内特有の局所的な温熱刺激、例えば、空調装置からの風や腰掛ヒーターの熱を想定し、被験者実験を実施して乗客の温熱感覚などに関するデータを集め、車内温熱環境の快適性評価手法の提案を目指しています。

(9)弱視者などを考慮したトイレの視認性評価

 駅のトイレは利用者数が多く、弱視などの利用者にとっても重要な設備ですが、使いやすいものとするためには、視認性に配慮した色彩計画が必要です。本研究ではトイレ空間の視認性評価方法と色彩計画の提案を目指しています。

(10)振動乗り心地評価の軌道保守への適用

 営業列車に搭載された軌道検測用のセンサによって得られるデータを、振動乗り心地評価の観点から軌道保守に適用することを目指します。現場にマッチした提案に繋げていきます。

そのほかの研究や成果の水平展開と現場の支援

 前記の研究だけでなく、視覚障害者の安全性向上、火災時の避難誘導などにも引き続き取り組んでいきます。また、車内の温熱環境評価、お客さまの視点に立った異常時案内放送を実践するための教育訓練手法など、これまでの成果を現場にフィードバックさせるための取り組みもより一層推進していきます。

(人間工学グループ 水上直樹)

平成29年度の活動計画(安全性解析)

 安全性解析グループでは、鉄道事業者の安全マネジメントの支援と、係員や利用者の不安全行動の防止に効果的な対策を検討するための研究に取り組んでいます。

 平成29年度に取り組む主な研究の概要を以下に紹介します。

◎ルール遵守を促進する効果的な指導法のあり方

 ルールは、内容さえ教えていれば、誰も必ず遵守するわけではありません。ルール違反(不安全行動)を防止するためには、その設定経緯、関係する作業全体の仕組み、遵守のメリットあるいは遵守しない場合のデメリット(リスク)等を理解することが必要です。そして、このような深い理解を促すためには、説明を受けるだけといった受け身ではなく、考えながら理解を深められるような演習を中心とした指導法が有効だと考えています。しかし、こうした指導法は実施側の手間がかかるという課題もあります。そこで、内容と共に、計画・実施までを考慮した効果的な教育訓練のあり方を検討しています。

◎旅客対応時のトラブル発生メカニズムの解明

 鉄道システムの安全・安心のためには、利用者も含めた全体的な視点での検討が必要であると考えています。その一つとして、旅客や駅係員の安全・安心、また鉄道の安定輸送のために、旅客対応時のトラブルの防止に向けた研究に取り組んでいます。どのような場面で、なぜ発生しやすいのか、駅係員の対応と利用者の心理の関係について調査や心理実験を行い、トラブル発生に関わる要因を整理しています。

◎踏切安全性向上のため研究

 従来は踏切の設備的な特徴と事故の発生傾向から、個々の踏切の安全性を評価する研究に取り組んできました。

 平成29年度からは、これまでの研究成果を活かし、通行者の直前横断の抑止や滞留解消効果がより高い対策の検討に取り組みます。その一つとして、踏切の遮断かんの制御方法と踏切を通行する歩行者の心理や行動の関係を把握するための検証実験(図1)を行ないます。まずは、検証実験のための実験装置の試作と予備試験から着手します。

◎安全マネジメントの支援

 従来の研究成果を活用した実用的な支援として、技術指導や研修・講演への講師派遣を行なっています。

①事故やエラーの背景要因の調査・分析の方法

事故の聞き取り調査手法
ヒューマンファクター分析法(図2)

②安全マネジメントの改善計画の検討に向けて

安全風土評価手法
エラーリスク管理支援手法
ヒヤリハット情報を用いたリスクマップ

③安全のためのコミュニケーションの促進に向けて

異常時コミュニケーション訓練
管理者のコミュニケーションスキル評価手法

(安全性解析グループ 宮地由芽子)

平成29年度の活動計画(生物工学)

 生物工学グループでは、鉄道分野の中で、広い意味で人(生命)を衛(まも)る、すなわち衛生学的な分野での取り組みを進めています。具体的には、駅や車内の環境中の電磁界・化学物質・微生物など、人々の健康や快適性に関わる要因を調査し見える化することで、鉄道の環境の安全性や快適度のより具体的な把握を進め、環境の評価や対策の提案を行います。

 また、従事員の負担の軽減を目指し、鹿などの野生動物と車両の衝撃事故の低減対策等にも取り組んでいます。

◎電磁界の刺激作用に関する研究

 時間変化する低い周波数の強い電磁界へ人がばく露されると、人間の体内には電磁界の強さに応じた電界が生じ、ある強さ以上では、例外なく神経が刺激される現象が生じます。日本においては、この刺激作用が生じないように、電力設備や鉄道の地上電気設備等に規制が導入されています。ただし、この根拠となるデータが蓄積されている周波数帯が限られていて、鉄道で発生している周波数帯のデータについても十分とは言えません。そのため、しっかりとしたデータを得ておくことが大切です。

 このため、昨年度、神経細胞を用いる試験管レベルでの新しい実験方法を開発しました。具体的には、顕微鏡で一つ一つの細胞を観察しながら、強い電磁界を細胞にばく露し、その瞬間の反応を捉えることが可能になりました。今年度も、この装置を用いて、ラットやマウス、更には人間のiPS細胞由来の神経細胞への磁界ばく露実験を行い、電磁界の神経細胞への刺激と反応のいき値の検討を進めます。

◎鉄道関連空間の衛生環境に関する研究

 人が生活する場所には、環境や人由来の付着微生物、また空間中を浮遊する粒子に付着した微生物等が存在しており、中には不快臭等の原因になっている場合もあります。鉄道も例外ではなく、昨年に引き続き、様々な鉄道設備を対象に付着微生物の実態調査を進めます。この調査にあたっては、最新の遺伝子解析技術による調査やにおい分析用ガスクロマトグラフ質量分析装置(図)を含め、幅広い手法を応用しながら、実態の把握を進めていきます。

 また、鉄道利用者の設備利用に関する意識調査も実施する予定です。これらの調査により、鉄道設備の衛生面の知見を蓄積していきます。

◎野生生物対策に関する研究

 鉄道での鹿と車両の衝撃事故は年々増加傾向にあります。背景にはここ20年で9倍にも増えたと言われる鹿の急速な生息数の増加や、生息域の拡大があります。事故が起こると、運転遅延による利用者への影響はもとより、現場確認する運転士や処理を行う保線作業者の負担が増えます。このため、様々な対策が試みられ、一定の効果をあげていますが、事故をさらに減少させていくためには、新たな事故防止対策の開発が望まれています。

 昨年度までの研究において、線路周辺における鹿の行動調査、事故に影響すると考えられる周辺環境要因の抽出、および鹿の音に対する反応についての基礎的な知見を得ることが出来ました。また、営業車両から沿線の鹿に向けて音を吹鳴する試験によって鹿を追い払う一定の効果があることを確認しました。

 今年度は引き続き音を利用した対策技術の開発を進めていきます。

◎その他の課題

 上記以外にも、沿線の雑草対策、香気による快適性向上の可能性など、鉄道の安全と安心、快適性向上のための研究開発に取り組んでいきます。

(生物工学グループ 池畑政輝)