ロービジョンと階段歩行の安全

はじめに

 「障害者白書(平成24年版)」によれば,我が国には約31万人の視覚障害者がおり,その7割がロービジョン(弱視)者です。ロービジョン者は白杖をもっていないことも多いため傍目にはわからないことも少なくありませんが,歩行中に事故に遭うことは少なくないため,全盲者の場合と同様,安全対策が必要です。

ロービジョンと階段歩行の安全

 我が国では階段の下端部に視覚障害者誘導用ブロック(以下,ブロック)を敷設する際,段から30cm程度離してブロックを敷設するのが一般的です。ところが,スイスやドイツ等は「段とブロックの隙間(セットバック)が階段の踏面の長さ(通常は30cm程度)と似通っていると,ロービジョン者が階段を降りる際に,セットバックを階段の最下段と勘違いして,ブロックがもう一段低い所にあると想定して足を踏み出すため,ふらつきなどのリスクを生じる」と主張している,という話を本紙178号でお話ししました。
 結局,昨年3月に発行されたブロックのISO規格の附則にはスイス等の主張が取り入れられ,我が国の方式と異なるブロックの敷設方式が記載されています。こうした動向が今後我が国に不利に働かないよう,我々はスイス等の主張を検証しています。その過程でヨーロッパの現状を調べたところ,スイスやドイツでは階段の最下段と最上段だけ色を変えることが多いことがわかりました(図1)。これは主としてロービジョン者や高齢者に最下段と最上段を明示するために以前から行われているものです。このように最下段の色が違う階段を降りる時,段から30cmのセットバックを空けてブロックが敷設されていると,いろんな色が交互に見えて紛らわしく感じる可能性があります。彼らの主張を理解するにはその背景も考慮する必要があるという訳です。
 しかし我が国には階段の一部の段の色を変えるという背景はありません。また,段から30cmのセットバックを開けてブロックを敷設する方式が既に世間に浸透しています。したがってスイス等の主張を検証する上では,どちらが正しいという単純な議論ではなく,各々の背景を考慮して個別に良い方策を考えることも必要なのかもしれません。
 ただ,ロービジョン者の視覚特性を調べてみると,床模様の濃淡が浮き出して(あるいは引っ込んで)見える場合があること,したがって動線と直交する方向に床模様の濃淡があると段と錯覚してしまうことなどがわかっています。こうした視覚特性を考えると,やはりブロック敷設にはロービジョンの人たちへの配慮が必要でしょう。例えば長さが1.5mの踊り場に30cmのセットバックを開けて2列にブロックを敷設すると,セットバック,ブロック,ブロック同士の間が全て30cmになり,すべて踏面と同じ寸法になりますから,踊り場と階段の区別がつきにくくなる可能性があります(図2)。
 こうしたことを考えながら,日本の鉄道駅の現状を考慮しつつ,視覚障害者の歩行安全に向けて検討を行っています。

(注)この研究は三井住友海上福祉財団による研究助成を受けて実施しました。

  • 図1 一部の段の色が変えられている例(スイス)
    図1 一部の段の色が変えられている例(スイス)
  • 図2 長さが1.5mの踊り場とブロック敷設(上:縦断面図,下:平面図)
    図2 長さが1.5mの踊り場とブロック敷設
    (上:縦断面図,下:平面図)

(人間工学 大野 央人)

安全に関わる研究とアイカメラ

アイカメラとは

 何か作業を行っている時など、人間がどこを見ているかについては、多くの分野、多くの人が関心を持つところと思います。
 アイカメラ(アイトラッキングシステム)は、そのようなデータを得る際に使われる装置で、眼球に赤外線を当て、その反射を利用して眼球運動を記録するものです。
 アイカメラが使われている分野は多岐にわたり、文章の読解、広告を見た場合など、人間の知覚、認知(外部から情報を得て、理解すること)にかかわる分野や、ユーザビリティ(物の使いやすさ)の分野などで、様々なことが調べられています。
 安全に作業を行うためには、外部から視覚情報を得ることは重要ですので、鉄道、航空、自動車など、安全にかかわる分野においても、アイカメラは活用されており、さまざまなことが明らかになっています。

アイカメラから得られるデータ

 アイカメラを用いることで、視線がどこに向いていたかというデータが得られます(図1)。そのデータから注視(停留)データ、すなわち、視線の注視位置(どこを見ていたか)、注視時間(どれくらい見ていたか)かを算出します。
 得られた注視データを用いて、どこをたくさん見ていたか、見ている範囲はどの程度だったか、どのような順番、方略で見ていたかなどの分析を行っていきます。


  • 図1 アイカメラの記録画像
    図1 アイカメラの記録画像

アイカメラの活用方法

 自動車ドライバーの研究は、アイカメラを用いた研究が多い分野で、様々な知見が得られています。例えば、初心者ドライバーと比較してベテランドライバーが短い注視時間で多くの箇所を見ていることや、ベテランドライバーは、初心者ドライバーと比較して、水平方向に広い範囲を見ていることなどが明らかになっています。
 では、こういった知見を活かすにはどうしたら良いでしょうか。一つは、初心者ドライバーがベテランドライバーのように視線を向けることができるように訓練するということが考えられます。
 しかし、そのような訓練を行うのは簡単ではありません。単純に、初心者ドライバーにベテランドライバーの視線の動きを教え、表面上同じような動きになったとしても、ベテランドライバーと同じように情報を得られているとは限らないからです。
 このような訓練を有効なものとするには、視線の動きだけではなく、ベテランドライバーがある箇所をよく見るのはなぜなのか、初心者ドライバーと異なる見方をするのはなぜなのかといったことも理解する必要があります。そのためには、視線の動きとともに作業中の言語情報を取得し、合わせて分析することも有効です。また、ベテランドライバーが、意識せずに、初心者ドライバーとは異なる見方をしているということは十分に考えられるので、記録したアイカメラの映像を一緒に見て、なぜそのような視線の動きをしているのかを掘り下げて話し合ったりすることも必要です。

終わりに

 アイカメラのデータを有効活用するためには、その他のデータも取得するなどの工夫が必要です。しかし、上手く使えば現場でも役に立つデータが得られると考えています。

参考文献

伊藤謙治, 桑野園子, 小松原明哲 編:人間工学ハンドブック, 第5部 人間データの獲得・解析, 朝倉書店, 2003

(安全心理 増田 貴之)

においチェックシート

はじめに

 これまで数回にわたり、駅や車両の「におい」の評価について、分析機器を用いた方法を中心にご紹介をしてきました。におい物質の追究には、ご紹介したような分析機器による客観評価が不可欠です。しかし、実際の鉄道現場に、このような分析機器を設置してにおい物質を常に調べることはできません。そこで、これらに加えて、人の鼻を利用して環境中のにおいをより手軽に評価できる主観評価法も、必要であると考えています(図1)。現在、あらかじめ用意した質問に回答をしてもらうことにより、人が鼻で感じたにおいの質を把握できる「においチェックシート」の作成に取り組んでいます。今回はこの「においチェックシート」についてご紹介をします。


  • 図1 におい評価の流れ
    図1 におい評価の流れ

評価語による「におい」の理解

 においの正体は、化学物質です。環境中の様々な物質が絡み合い、鼻というすばらしい感覚器官を通して、においを感じます。しかしやっかいなことに、人は、同じにおい物質を嗅いでも、異なる言葉を用いてにおいを表現する場合があります。そのため、各個人が表現した言葉から、どのようなにおいであったのかを理解するには時間を要する場合があります。そこで、鉄道現場のにおいに対して、鉄道設備用に選抜した31の言葉(以後、評価語と表現します)に対する「当てはまり度」を回答してもらうことで、曖昧な表現になることを回避しようと考えました。31の評価語のそれぞれに対し、「この場所のにおいの表現として、この言葉はどのくらい当てはまるか」を0から3の4段階で回答をしてもらい、結果は31軸からなるレーダーチャートで表します。私達がかび臭い、ほこりっぽい、と感じたA駅地下ホームにおいて、一般の方々に、チェックシートを用いたにおいの評価をお願いしたところ、モニターの方々も、「かび」や「ほこりっぽい」という評価語に対して当てはまり度が高いと回答していました(図2)。また、翌年も同地点で同様の調査を行ったところ、やはり「かび」「ほこりっぽい」という評価語に対する当てはまり度が高いという結果が得られました。このことから、評価語によるにおいの理解には再現性はみられると考えます。なお、31語以外にもっとふさわしい評価語があるという意見はでませんでした。このように、選抜された評価語を使うことで、駅等のにおいを把握することが可能になったと考えています。


  • 図2 レーダーチャートの例(黒:A駅地下ホーム、灰色:B駅地上ホーム)
    図2 レーダーチャートの例
    (黒:A駅地下ホーム、灰色:B駅地上ホーム)

評価語とにおい物質の対応の検討

 「かび」「ほこりっぽい」という評価語の当てはまり度が高い環境中にはどのようなにおい物質が存在しているのでしょうか。これを知るために、かびが放出するにおい物質や、駅地下ホーム内空気中に含まれるにおい物質の分析を実施しました。また、同じように他の評価語と環境中のにおい物質の対応も明らかにしておけば、チェックシートへの回答から、鉄道設備中のにおい物質の推定もある程度は可能になるかもしれません。こうした考えから、現在は、各評価語がそれぞれ確実に当てはまるにおい環境中に、どのようなにおい物質があるのかを、化学分析により把握する作業を進めています。
 誰でも手軽に駅や車両のにおいを把握できるにおいチェックシートを目指していますが、客観評価、すなわち機器分析データとの照合が重要であると考えています。

(生物工学 川﨑たまみ)

お父さんのストレス講座-ワーク・ライフ・バランスは総花的か-

ワーク・ライフ・バランスとは

 内閣府によれば、ワーク・ライフ・バランスが実現した社会とは、「国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる社会」のことを指すのだそうです。2007年には、政府によって憲章と行動指針が打ち出され、ワーク・ライフ・バランスは今や国民的取り組みとして位置づけられていますが、果たして、私たちの生活は、仕事と家庭を調和させ、これまで以上に充実したものとなっているのでしょうか。

制度の浸透を阻むもの

 2011年の厚生労働省の調査では、男性の育児休業取得率は2.63%となり、初めて2%を超えたとのことです。この数字を高いと見るか、低いと見るかは難しいところですが、同年の女性の育児休業取得率が87.8%であることを考慮すると、必ずしも制度が十分に機能しているとは言い難いところです。ワーク・ライフ・バランスの取り組みは、育児に限定したものではありませんが、制度の浸透を端的に表す指標となっていることは間違いないでしょう。
 ワーク・ライフ・バランスの本質は、個人が望むライフスタイルを、誰もが実現できることにあるので、仕事に長時間打ち込む働き方を否定するものではありません。問題は、日本の伝統的な職場風土に、ワーク・ライフ・バランスの制度がなじまないことにあります。長時間労働により成果を上げ、組織への忠誠心を示すという働き方は、戦後の高度経済成長を支えた大きな要因のひとつでもありました。このような中で、子育てや介護など、仕事以外の家庭生活に時間を費やすことは、一線からの離脱を意味するかのような否定的イメージを抱かれがちです。
 しかしながら、少子高齢化を迎えた現在の日本では、子育てをしやすい環境を整備し、女性を含む多様な労働力を確保することが求められています。このような時代の趨勢にあっては、長時間就労できる人のみで構成される組織は同質化し、むしろ多様性に対応できる柔軟性が阻害されることにもなりかねません。

変われる組織であるということ

 経営学者ピーター・センゲによれば、価値観が急速に変容する社会に適応できる組織とは、「学習する組織」であるといいます。すなわち、人と集団が双方に継続的学習をし、変化に適応し、変化を生み出す力を持った組織であることが何より重要であるということです。
 鉄道事業の特殊性のひとつは、公共性が高いということ、すなわちあらゆる人が利用者となりうるということです。つまり、鉄道利用者の半数以上は、女性であり、子どもであり、高齢者であるということになります。このような鉄道利用者のニーズを把握するには、職業人としてではなく、生活者となって鉄道利用をしてみなければ、見えてこないものがあるはずです。

ワーク・ライフ・バランスの効用

1.ポジティブ・スピルオーバー

 仕事生活や家庭生活などの複数の役割を持つことで、相互の役割にポジティブな影響を及ぼすことを、ポジティブ・スピルオーバーと呼びます。一例としては、子育て(家庭生活)で培われた視点が、部下育成(仕事生活)に活かされるというケースです。
 某ビジネスコンサルタント曰く、有能な上司は、部下が一言、二言発するだけで10まで分かってしまい、部下の結論を待たずしてうまく内容を先取りしてみせるとのこと。結果、上司は超えられない壁となって立ちはだかり、部下の自信は失われ、指示待ちの姿勢が形成されてしまうといいます。
 ゼロか1かの成果主義の中にあっては、ゴールに至るまでの道筋を評価するという視点がないがしろにされがちですが、プロセスを見守り、成長を楽しむことができれば、部下育成に新しいやりがいを見つけられるのではないでしょうか。

2.タイムマネジメントスキルの向上

 仕事生活と家庭生活の両立は、生産性の低下を意味するものではありません。ワーク・ライフ・バランスをうまく生活に取り込むには、時間制約のある中で、いかに効率的に働くかという工夫が個人にも求められています。
 小さな子どもを持つ友人は、「明日、自分が来られないことを想定してその日の仕事を終える」のだと言います。このようなタイムマネジメントの有り方は、ワーク・ライフ・バランス実現のためのひとつの答えになっているように思います。

(人間工学 鈴木 綾子)