さらなる鉄道の安全を得るための人間科学研究のアプローチ

 人間は未知なる生物であると思う。科学で解明されていないという観点からである。未知なる人間の本質に少しでも迫ろうという学問が人間科学、ヒューマンサイエンスである。洗われる、軽い、騒ぐ、弾む、乱れる、刻む、止める、任せる、触れる、合わせる、痛める、動かす、打たれる、奪われる、躍らせる、配る、酌む、凝らす、そそる、尽くす、留める、開く、許す、寄せる等、これらの動詞につながるのは、「心」という言葉だ。心の動きを表現する動詞が実に多岐であることからも、感情と行動が繊細で複雑多岐であることがわかる。
 鉄道総研の人間科学研究部は、鉄道業務従業員および鉄道利用者の安全や快適性の向上を目的に生理、心理の観点から評価、解析を行っている。他の研究部が鉄道設備や装置を研究対象とすることに対し、本研究部は人間の心理と生理すなわち、心と体、もしくは、人間の心の動き、複雑な感情と行動を研究対象とする。
 鉄道の安全を維持・向上するために、事故防止に貢献する役割を担う人間科学研究部の研究とはどうあるべきだろうか。従業員のミスを誘発し易い心理的要因の抽出、心理適性評価手法、ミスを起こし難いマンマシンインターフェース、作業負荷の評価、企業風土の評価等種々の取り組みがなされ、それぞれ成果を上げてきた。さらなる研究成果を効率的に得るために、今後何をすべきか、長期的視野に立ち、研究マネジメントを見据えていくことが必要である。
 その道筋の一つに、心と体に対応する心理学、生理学、生物学を一体として人間科学研究のプロセスに加えることが考えられる。例えば、新たな測定方法を使った、汗腺の活動、心拍、血圧、目の動き、筋力の変化等の身体反応量の数値評価の深度化である。さらに、心理学への科学的手法の導入に加え、ある課題に対して実現象の計測と実験手法による物理量の定量化、仮説の設定、理論化、推論・推定、対策設定を行う、工学的アプローチの導入を挙げたい。
 こうしたアプローチは、心と体を司る鉄道業務における脳の科学的研究へ発展すべきと思う。心と脳の関係を追及する研究は、生命、知能、社会を対象とする複雑系科学にも位置づけられ、人間の原点の科学的追求でもある。緊張と弛緩のリズム、人体の情報処理の能力、覚醒水準変化、睡眠と疲労、訓練効果、緊張状態等の行動の能力レベルに関係する要因の数値分析も重要かもしれない。さらに学習効果、環境影響、情報伝達等に関わると、精神・神経生理学、情報工学等にも関係が生じる。
 ミステリアスとされる人間の行動の解明への道は長くても、これを着実に前進させていくことを研究者各位に期待したい。一方、鉄道の安全や快適の追求に関わる行動現象を把握するために、鉄道事業者からの多くの情報が欠かせない。鉄道事業者各位のさらなるご協力とご理解、アドバイスをお願いする次第である。

(理事長 熊谷 則道)

コーチングによる安全指導

 作業者が事故を起こさないために、会社が行う安全のための指導を、ここでは「安全指導」と呼びます。安全指導には、2つの側面があります。
 一つは、まれにしか行わないためによくわからない作業手順を教えたり、誤りやすいポイントを教えたりするような知識・技能指導の側面、もう一つは安全に対する感受性を高めたり、意識向上を図るような態度指導の側面です。
 それぞれの側面は指導する内容が異なりますので、同じような指導の仕方をしては十分な効果が得られません。

ティーチング

 知識や技能を指導する場面では、指導者は知識と技能を持っていて、指導を受ける者はそれらを持っていません。そこで、必要な知識を伝え、必要な技能を伝え、身につけさせます。これは一般的な教育(ティーチング)のイメージです。
 また、これは親が子供に、先生が生徒に教える場面と同じです。だれもがこれを通過して大人になりますので、こういうものだと思っています。だから、自分が教える立場になったら、同じように教えます。それが自然ですので、教えるのにそれほど苦労はしません。
 態度を指導する場面も、指導者は安全に対する高い意識を持っていて、指導を受ける者はそれらを持っていません。ここは同じです。しかし、安全意識は、それを伝えるだけで身につけさせることは困難です。

押しつけられ感

 困難な理由は、押しつけられている感じがするからです。言っていることはわかる、正しいと思う、しかし、押しつけられると厭な気持になり、それに従いたくなくなります。
 テレビを見ていて「そろそろ勉強しようかな」と思っていると、親から「勉強しろ」と言われ、とたんに勉強が厭になる、あの感じです。
 北風は旅人のコートを脱がすことはできません。できるのは太陽です。安全態度を指導する場面での太陽は、本人のやる気に寄り添い、やる気を促すよう支援するやり方(コーチング)です。

コーチング

 コーチングは比較的新しい言葉で、人材育成の技法とか、コミュニケーションの技術とか、いろいろな捉え方があります。ここでは、相手の目標達成や成長を支援するための継続的な面談と考えます。
 コーチングの考え方は、相手には知識、能力、向上心があり、自律しているというものです。だから、なにかを教えようとはせずに、相手がどうしたいかを引き出し、それを後押しします。
 作業者は誰でも事故を起こしたいとは思いません。安全が大切なことも知っていて、自分がどんなときに失敗しやすいかも、よく考えれば出てくるはずです。それにどう対処すればいいかも、自分だからこそ一番よくわかるはずです。

具体的にどうするの?

 コーチングについて学んだり、研修を受けたりすると多くの人は納得するのですが、いざ職場でそれを使おうとするとうまくできずに立ちすくんでしまうようです。
 コーチングは、多くの人にとってそのような扱いをされたことがないので、苦労するのです。コーチングの技能を高めるには、実地で試行錯誤をすることしかないのではないかと思います。
 私たちがある鉄道会社と一緒に開発した「自己チェックを活用した安全指導手法」では、コーチングによる面談を主体にしています。注意力についての自己チェックにより弱点をふり返ってもらい、それを補う自主的な工夫を促していきます。ポイントを絞ることで、コーチング技能の不足を補い、繰り返しの中で指導者の技能向上も期待できると思っています。

(安全心理 井上 貴文)

危険感受性を鍛える

危険感受性とは

 危険感受性とは、危険に対する敏感さのことです。危険感受性が高い人は、危険なものを危険と認識することができますし、低い人は認識することができません。したがって、危険を伴う現場で働く作業員にとって、重要なスキルです。
 危険感受性を高めるにはどうしたら良いでしょうか。1つは、危険な状況や場面に関する知識を獲得したり深めたりすることが考えられます。知識がなければ、置かれている状況において、何が危険なのかを判断することが難しいケースがあります。そのようなケースでは、すでに起きてしまった事象を共有することが、非常に有益です。新人など、現場での経験が少ない作業員にとっては、過去に生じた事例についての知識を獲得することで、同様の状況におかれた際に、気付きやすくなると考えられます。
 危険感受性を高めるための別の方法として、自身の注意力を正しく把握するということが考えられます。人間の注意力は、それほど高いものではありません。自分が思っているよりも自分の注意力は高くないという認識があれば“見逃すかもしれない”と考えるため、周囲に注意を払ったり、慎重に行動したりするなど、安全意識が向上すると考えられます。

危険感受性の訓練手法

 危険な状況や場面に関する知識を獲得したり深めたりする訓練手法については、交通分野を中心に、画像や動画の中から危険個所を探し出すという方法を用いて取り組まれてきました。一方で、自身の注意力の認識を変える訓練については、これまで十分に取り組まれていないようです。

新しい危険感受性訓練

 そこで、筆者は、自身の注意力の認識を変えることで、危険感受性を高める訓練手法の開発に取り組んでいます。自身の注意力の認識を変えるには、訓練を通じて注意力の限界に起因する見逃しを体験することで、自分が見逃す可能性に気付いてもらうことが必要です。そのためには、答えを知れば検出が非常に簡単に感じられるにも関わらず、実際には検出が困難である訓練課題が適しています。
 このような体験ができる課題として、心理学ではチェンジブラインドネス課題が知られており、注意に関わる研究で用いられています。代表的な例としては、一部が異なる写真が黒い画像を一瞬挟んで交互に表示されるものです(図1:写真左上の道路標識が変化)。
 チェンジブラインドネスの特徴的な点として、画像の中の変化を懸命に探していても検出できないという点、繰り返し見ても変化が検出できない点、変化が非常に大きい場合でも気付くことができないという点が挙げられます。現在、チェンジブラインドネスのこのような特徴を生かして、新しい危険感受性訓練の開発を目指しています。

  • 図1 チェンジブラインドネス課題の例
    図1 チェンジブラインドネス課題の例
  • 図2 新しい危険感受性訓練の特徴
    図2 新しい危険感受性訓練の特徴

(安全心理 増田 貴之)

何℃で「暑い/寒い」?

はじめに

 私たちは温度が何℃のときに暑いと感じたり,寒いと感じたりするのでしょうか。私たちの感じる「暑い/寒い」といった感覚(温冷感)には,温度だけでなく,湿度,風速,放射温度等が影響しており,これらの影響を定量的に表す指標がいくつか提案されています。人間科学ニュース第183号の「『体感温度』って?」では,その一つとしてSET*をご紹介しました。ただし,SET*は単位が「温度」であり,温冷感までは提示してくれません。
 今回は,温熱環境から人の温冷感や快適性を直接予測する指標であるPMVをご紹介します。

「暑い/寒い」を予測する指標

 PMV(Predicted Mean Vote,予測平均温冷感申告)は,総計1000名を超える被験者実験の温冷感申告値と,対象環境下での人体熱負荷の計算値との相関分析により得られたものです。PMVは温冷感の予測値として算出されるため,そのわかりやすさから建築分野を中心に広く使用されています。さらに,PMVの関数としてPPD(Predicted Percentage of Dissatisfied,予測不満足率)が提案されており,温熱快適性の評価に利用されています。
 PMVとPPDの関係を図1に示します。PPDの最小値は5%であり0%ではありません。これは,万人に快適な温熱環境を実現することの難しさを示唆するものといえます。

温度とPMV・PPDの関係

 ここでは仮に,温度以外の要因を全て一定と仮定した場合の,温度とPMV,PPDの関係を見てみたいと思います。ただし,湿度は50%,風速は静穏気流0.1m/s,放射温度は温度と同じ,着衣は夏の軽装,活動状況は着座安静としました。図1の横軸PMVの下に,対応する温度を併記しました。この場合は,温冷感として「どちらでもない」は25.5℃,「暑い」は31.1℃,「寒い」は19.8℃となります。また,PMVが±1から外れると,快適性が大きく悪化していることがわかります。室内の温熱快適性を保つためには,PMVを±1(PPDが25%)以内に抑える,つまり,温度を22.7~28.3℃の範囲内となるように室内環境を調整する必要があるといえます。

  • 図1 温度とPMV,PPDの関係
    図1 温度とPMV,PPDの関係

鉄道車内への適用にあたって

 PMVやPPDは,鉄道車内の乗客の温熱快適性評価に適用できそうです。しかし,その適用にあたっては注意が必要です。  実験データに基づく指標の信頼できる適用範囲は,そのデータが取得された実験環境範囲内です。その範囲外に適用する場合は,誤った解釈をしないためにも,予め実験等で妥当性を検証しておく必要があります。
 PMVを含め,既存の温熱指標のほとんどは,温度や湿度が時間的に一定である「定常的温熱環境」を対象としています。一方,鉄道車内,特に通勤列車内は,混雑率の変化や,ドア開放時の外気進入等により温湿度が変動する「非定常的温熱環境」です。定常的温熱環境と非定常的温熱環境とでは,同じ温湿度であっても温冷感が異なることが予想されるので,実験等による検証が必要です。

おわりに

 現在,人間工学研究室では,鉄道車内の非定常的温熱環境に適用可能な温熱指標に関する実験研究を進めています。これらの研究成果については,また次の機会にご紹介したいと思います。

(人間工学 遠藤 広晴)

音に対する不快度推定

鉄道車内の騒音対策

 騒音の対策はまず「大きな音は小さくする」ことがポイントです。ある場所にいる人間に聞こえてくる音を小さくするには、①音の発生源そのものに対策を講じて出る音を直接小さくする、②音が伝わる経路上に遮音や吸音できるものを設置し聞こえる音を小さくする、という大きく分けて2種類の方策があります。
 対策のためにはどこからどのような音が発生しているかを知ることが必要となりますが、さらに効率よく対策するには「どのような音がどの程度不快と感じられるか」を知ることも重要です。このため、乗客にとって鉄道車内騒音のどのような音が不快かということを主観評価実験の結果から示し、車内騒音に対する不快度を定量化する方法を検討しました。

車内騒音に対する印象評価

 鉄道車内で聞こえる音にはさまざまなものがありますが、ここでは一般的な車両走行に伴って発生する音を対象としました。実際に走行中の車内で収録した音から評価対象とする音を複数パターン切り出して、これらをランダムな順序でスピーカーから再生して、それぞれ鉄道の車内で聞こえる音としての印象を回答してもらいました。
 まず、音を数段階の大きさで聞いてもらい、不快の程度を質問した結果、音は大きいほうが不快であり、さらに音によっては大きさが同程度でも不快と感じる度合いに差があることが確かめられました。では、どういう音が不快と思われやすいのでしょうか。このことを調べるため、音の大きさをなるべく揃えて再生し、それぞれの音に対する印象を23の評価語対を用いて7段階で答えてもらいました。
 この結果を分析したところ、鉄道の車内音に対する好ましさの印象はその音が柔らかい印象の音であるかどうかと相関が高いという結果が得られました。つまり、車内音はその大きさが同程度なら、より柔らかい印象のものの方が不快と感じられにくいことがわかりました。
 さらに、音を色々な物理指標で分析した結果と印象との相関から、柔らかい印象の音であるかどうかは音質に関する物理指標の一つであるシャープネスとの相関が高いこともわかりました。シャープネスとは音の甲高さを示すために考えられた指標で、高周波数域の成分の割合が高いと大きい値を取ります。

印象を定量化し推定する

 大きく、柔らかくない印象の音が不快と感じられやすいことがわかりましたが、これを数値で示すことができればさらにわかりやすいものとなります。このため不快度をシャープネスなどを用いて定量化する方法を検討しました。
 再生する音の大きさを実際に車内で収録したときとほぼ同程度にして、その音がどの程度不快であるかを5段階で評価してもらいました。この結果の例を下図に示します。図の横軸は音の大きさ、縦軸が不快度です。個々の点は異なる音を示します。 図からわかるように不快度は音の大きさとの相関がとても高いこと、また、点線で囲んだ部分のように大きさが同程度でも音によって不快度に差があることが確かめられました。また、この差はシャープネスとの相関が高いことも確認できました。
 これらの結果から不快度は音の大きさを表す指標と音の柔らかさを表す指標を用いて定量化でき、これを用いることで音に対する不快度は物理的な指標から客観的に推定できると考えられます。
 不快度を定量化することで、不快と感じられやすい音を特定しやすくなり、効率的に対策を進めることができます。このようにしてより快適な車内環境の実現を目指していきたいと考えています。

  • 図 音の大きさと不快度の相関
    図 音の大きさと不快度の相関

(人間工学 安部由布子)