鉄道総研の最近の人間科学研究

 人間科学ニュースをご愛読いただき、心より感謝申し上げます。今後も鉄道総研の人間科学研究の取り組みを紹介したり、人間に関わる興味深い知見などについて解説したり、気楽に人間科学に親しんで頂ける誌面を心がけてまいります。

 本号は年度が替わりまして最初の号となりますので、人間科学研究部の4つの研究室、安全心理研究室、人間工学研究室、安全性解析研究室、生物工学研究室の活動計画について次ページ以降でご紹介しております。それらに先立ちまして、ここでは最近の研究動向についてごく簡単にご紹介いたします。

 鉄道の安全性向上にとってヒューマンエラー防止は重要な課題であり、これまでも鉄道従事員、特に乗務員の教育訓練に関する研究を行ってきました。最近では自ら考え、気づきを促す教育方法の研究が多く、また、教育法を実践する際に使いやすく効果的な教材や体感ツールを併せて提案していることが特徴となっています。さらに、さまざまな技術の進歩に伴って現在の運転環境の見直しのニーズも増えており、人間工学的観点から考える運転室の寸法や警報音の設計を支援する研究も行っています。

 一方、利用者の観点から列車の揺れ、温熱環境、臭いなどの各要因に対して実態調査や実験的研究を推進し、車両の設計・改善に役立つ人間工学的な評価手法の提案を行っています。駅環境についても旅客の利便性や快適性向上を目的とした調査や研究を進めています。たとえばバリアフリー研究や駅トイレの臭気対策や緑化による快適性向上の研究、輸送障害時の案内放送の支援研究などがあげられます。

 昨年度、鉄道総研では基本計画RESEARCH2020の取り組みをスタートしました。その中の「鉄道の将来に向けた研究開発」項目のひとつとして、人間科学研究部が他の研究部と連携して推進していく個別課題「鉄道利用者の安全性向上」があります。この課題では「鉄道従事員の意思決定スキル向上」「踏切システムの安全向上」「車両の衝突安全向上」といったテーマを推進していきます。また、基礎的な研究として最新の脳計測技術などを活用していく試みを始めており、新しい技術を活用することで鉄道の発展に役立つ人間科学の知見を提供していくことができればと考えています。

(人間科学研究部長  小美濃 幸司)

平成28年度の活動計画(安全心理)

 私たちのグループは、ヒューマンエラー事故の防止を目指して、鉄道従事員の心理的な資質や職務能力、これらに影響するさまざまな条件などを明らかにし、適性検査や作業環境整備、教育・訓練などに役立てるための研究を行っています。

○高齢ドライバーの踏切事故防止

 昨年度は、web調査の分析から高齢ドライバーは踏切内に閉じ込められた際に手で遮断かんを上げようとする者が多いことなどが分かりました。さらに詳細な状況を知るために、総研内の踏切で場面を再現し(図1)、対処方を聞きました。分析は今年度に行います。

 また、昨年度は、踏切に進入する際に先行車に続いて進入するタイミングについての予備実験を行いました。今年度は、本実験を行います。

  • 図1 場面再現のイメージ
    図1 場面再現のイメージ

○意思決定スキルの測定に向けた意思決定課題

 判断ミスをなくす教育訓練手法の開発を目指して、意思決定スキルを評価するための課題の開発に取り組んでいます。

 昨年度は、事故データを分析し、判断ミスが発生しやすい場面、偏った判断を引き起こす内的要因と外的要因を抽出しました。

 また、意思決定場面を抽象的に再現したパソコン課題の試作版を2種類作成し、課題実施中の生理反応測定手法を検討しました。

 本年度は、偏った判断を引き起こす要因を加え、パソコン課題を改良します。さらに、皮膚電気反応や脳機能画像等を活用して、適切に意思決定場面が再現された課題であるかどうかを評価します。

○コミュニケーションエラー防止手法

 昨年度は、事故やヒヤリハットの事例分析から、一旦コミュニケーションエラーが発生してしまうと、復唱・確認会話をしてもエラーに気づかないことが明らかとなりました。さらに、コミュニケーションエラー発生の要因となり得る会話上の問題点を学習する「エラー要因気づき能力向上訓練」課題案を作成し、その効果を検証するための実験を行いました。

 本年度は、実験結果を分析し、それを基に、多様な鉄道現場に対応可能な訓練の試行版を作成します。

 また、コミュニケーションエラー防止策の実施状況の調査を行います。特に、コミュニケーションエラー防止策として取り入れられている確認会話は実施方法が明確に定まっておらず、適切に機能していない例や現場の混乱もみられているようです。そこで、各事業者のコミュニケーションエラー対策や留意点を調査し、事業者の規模や状況に合わせた対策を検討する際の参考となり得る事例集を作成します。

 本年度は鉄道事業者を対象としたアンケートによって現状を調査しますので、ご協力のほどよろしくお願いします。

○先取喚呼による速度超過防止法

 先取喚呼は、運転に重要なことや忘れてはいけないことを声に出しながら運転する方法で、イギリスの鉄道界では有名なヒューマンエラー防止法です。特に失念防止には効果的であると考えられます。失念による速度超過が生じないように、先取喚呼に注目し、指差喚呼との両立や使い分けを検討し、基本動作の開発に取り組みます。

 本年度は、先取喚呼の失念防止効果について、実験を行い、先取喚呼の失念防止効果を効果的に発揮するための喚呼タイミングや喚呼法等について検討します。

○海外での発表

 以下の2件について研究発表を行う予定です。

・「エラー要因気づき能力向上訓練」効果検証実験

  International Conference on Traffic and Transport Psychology

・発話が展望的記憶エラーに与える影響

  7th International Conference on Applied Human Factors and Ergonomics 2016

(安全心理グループ  井上 貴文)

平成28年度の活動計画(人間工学)

 人間工学グループでは、“安全・安心”や“快適・便利”の視点で、“鉄道を利用する人”と“鉄道で働く人”の利用環境や作業環境の向上を目指し、人間の形態・運動・生理・認知・行動特性などの諸特性を調べ、評価手法や改善方法を提案しています。

 平成28年度に取り組む主な研究の概要をご紹介します。

「安全・安心」の視点の研究

(1) 踏切通行者の実態把握

 本研究では、踏切を通行する歩行者を主な対象としています。踏切通行者の実態を調査し、通行者の特性や通行時の周囲の状況などを考慮した通行行動モデルの構築を目指します。本研究で構築した通行行動モデルは、踏切の安全性向上策の効果の予測などに活用していきます。

(2) 列車事故時の車内安全性評価

 災害や事故によって車両に衝撃があったときの被害軽減を目的としています。衝撃加速度、車内設備のレイアウト、乗車姿勢などの条件の違いによる乗客への影響を鉄道総研で構築したシミュレーション手法を用いて評価し、被害が大きくなってしまう条件を探索して安全対策を検討します。

(3) 車両とホームの隙間通過時の旅客の挙動の把握

 車両ドアとプラットホームの間には隙間があります。この隙間に乗客が転落することがあり、転落を減少させることは重要な課題です。しかし、対策検討のための実態把握は十分ではありません。そこで、転落に至る旅客の行動やそのときの周囲の状況を把握し、効果的対策の提案に繋げます。

(4) 生理指標による運転士の状態モニタリング

 運転士が良好な運転パフォーマンスを維持できるように、非拘束で運転士の心身状況を把握して適切に支援するための技術を開発することを最終目標としています。昨年度から脳活動計測にもチャレンジしています。また、最新のセンシング技術の活用も視野に入れ、さまざまな生理指標から運転士の状態変化を検出できるものを探索していきます。

(5) 運転訓練

 運転士が運転中に線路近傍の異常事象をいち早く発見できれば、その異常に起因する事故の回避や被害の抑制が期待できます。それには、運転中の視線の動きが重要な要素であると考えられますが、視線を計測して活用する訓練は実施できていません。本研究では、運転シミュレーター訓練における視線計測とデータの活用方法について検討していきます。

「快適・便利」の視点の研究

(6) 車内温熱環境の評価

 鉄道車内特有の局所的な温熱刺激を対象とする車内温熱環境の快適性評価手法の提案を目指します。局所的な温熱刺激の代表例として空調装置からの風や腰掛ヒーターの熱を想定しています。被験者試験などを実施しながら乗客の温熱感覚などに関するデータを集め、評価手法の提案に繋げていきます。

(7) 振動乗り心地評価の軌道保守への適用

 営業列車に搭載された軌道検測機能によって得られる車両振動や軌道のデータを、振動乗り心地評価の観点から軌道保守に適用することを目指します。現場のニーズを的確に拾い上げて、現場にマッチした提案に繋げていきます。

成果の水平展開や現場の支援

 前記の研究だけでなく、昨年度までに得られた成果の現場への水平展開や、鉄道の現場で発生する人間工学に関連するさまざまな問題を解決するための支援に取り組んでいきます。特に、お客さまの視点に立った異常時案内放送を実践するための教育訓練手法や、運転士のシミュレーター訓練用振り返り支援システムを活用した訓練手法などを積極的にご紹介していきます。また、鉄道事業者の皆様との接触機会をよりいっそう増やしていくことで、私たちが取り組むべき問題を的確に把握し、支援策の更なる改善・提案に向けフィードバックさせていきます。

(人間工学グループ  水上 直樹)

平成28年度の活動計画(安全性解析)

 安全性解析グループでは、鉄道事業者の安全マネジメントの実施や安全風土醸成を支援するための研究開発に取り組んでいます。

 平成28年度に取り組む主な研究の概要を以下に紹介します。

◎現場で求められるコミュニケーションスキル

 ふだんから相談や報告がし易い職場であることは、職場の安全風土の醸成において、とても重要です。また、職場内のコミュニケーションの活性化において、特に重要な役割を担うのは現場の管理者です。しかし、鉄道では、業務の多くは管理者から離れた場所で行われているため、目が届きにくいという側面があります。また、管理者も人間ですから、得意・不得意もあります。

 そこで、職場でのコミュニケーションの活性化を図るために、現場の管理者に求められているコミュニケーションスキルを整理し、改善のための評価の方法を開発します。

 一方、これまでにも、異常時という緊張場面でリスクを含む情報を相手に正確・円滑に伝達するための留意点をまとめ、適切なコミュニケーション技術を習得するための訓練手法を開発してきました。このたび、訓練手法の様子をご覧いただくための動画(図1)を作成し、WEBページで閲覧できるようにしましたので、ぜひご覧ください。

  • 図1 「コミュニケーション技術の留意点を用いた訓練の様子」動画の一場面
    図1 「コミュニケーション技術の留意点を用いた訓練の様子」動画の一場面

◎旅客対応時のトラブル発生メカニズムの解明

 鉄道システムの安全・安心のためには、鉄道事業者の組織内だけではなく、利用者も含めた全体的な視点での検討が必要であると考えています。その一つとして、旅客や駅係員の安全・安心のため、また鉄道の安定輸送のために、旅客対応時のトラブルの防止に向けた基礎的検討を開始しています。

 実際にどのような場面で、なぜ発生しやすいのか、駅係員と利用者の双方に対するアンケート調査を実施し、そのデータを分析してトラブル発生に関わる要因を整理します。

◎ルール遵守を促進する効果的な指導法のあり方

 鉄道では様々なルールが設定されていますが、内容を知っていれば必ず遵守できるというわけではありません。ルール違反を防止するためには、ルールに関する設定経緯、関係する作業全体の仕組み、あるいは、遵守しないことに対する危険性(リスク)を理解することが必要です。そして、このような深い理解を促すためには、教育訓練において、受講者が座学で説明を受けるだけというような受け身ではなく、考えながら理解を深められるような演習を中心とした方法が有効だと考えています。しかし、こうした教育訓練の実施は、一方で実施側の手間がかかるという課題もあります。

 そこで、内容と共に、計画・実施まで考慮した効果的な教育訓練のあり方を検討します。

◎安全マネジメントの支援

 事故やトラブルの防止策の検討には、事象の関係者の行動や発生状況等についての情報収集を十分に行うことが重要です。そこで、事象の関係者から背景要因についての情報を収集する方法「鉄道総研式事故の聞き取り調査手法」やその結果を整理・分析する方法「鉄道総研式ヒューマンファクタ分析手法」を開発し、指導を行ってきました。

 共に、これまで、マニュアルやハンドブックを作成してノウハウの普及を図ってきましたが、後者の「鉄道総研式ヒューマンファクタ分析法ハンドブック」は発刊して10年になり、技術指導の知見もだいぶ蓄積してまいりました。そこで、これまでのノウハウを反映したバージョンアップを計画しています。

 安全マネジメントの実施や安全風土醸成の支援のための技術指導や研修・講演への講師派遣も引き続き実施していきます。

(安全性解析グループ  宮地 由芽子)

平成28年度の活動計画(生物工学)

 生物工学グループでは、鉄道利用者と鉄道で働く人々の健康や快適性に関することを中心に活動をしています。駅や車内の環境中の電磁界・化学物質・微生物など、人々の健康に関わる要因の調査による見える化で、鉄道の環境の安全性のより具体的な把握を進めます。また、香りの新しい活用による快適性の向上や鹿と車両の衝撃事故の低減に関する基礎的な研究など、鉄道分野の中で、人と生物がかかわる課題、生物に起因する課題に広く取り組み、広い意味で人を衛(まも)る、すなわち衛生学的な分野に取り組んでいきます。

◎電磁界の刺激作用の評価

 「送電線からのごく弱い電磁界への長期間のばく露と小児白血病の間に弱い関連がある」とする疫学の報告をきっかけに、その真偽・リスクの程度についての議論が行われています。一方で、強い電磁界へのばく露で生じる神経の刺激など、はっきりとした一過性の影響については、その作用が生じないように鉄道においても一部規制が導入されています。ところが、この電磁界の神経刺激作用について、実験的根拠がある周波数は限られています。そのため、今後の規制改正のためには、鉄道で発生しているものの実験的根拠のない周波数帯の電磁界の実験的根拠を蓄積することが重要です。

 このため、培養した神経細胞を用いる新しい実験系を開発しており、これまでに、強い電磁界をばく露しながら神経活動による細胞の変化を観察できる装置を開発し、細胞を用いた神経刺激の「いき値」に関する知見を得つつあります。今年度も、細胞へのばく露実験を引き続き行い、電磁界のばく露による神経細胞の刺激と、そのいき値の検討を進めます。

◎「香り」の利用に関する研究

 「におい」について、不快な臭気を低減するための研究や、鉄道空間における香りの利用に関する研究に取り組んでいます。「香り」の研究では、これまでに、駅待合室に香りを持つ植物を置くことによって、精神疲労の回復効果が得られることなどを明らかにしてきました。昨年度からは、清涼感のある香りなどを対象として、基礎的な調査を行っています。今年度は、夏季の駅における清涼感のある香りの利用などを想定し、駅を模擬した環境での試験を行い、快適性を向上する方法について検討する予定です。

 今後、空間に香りを提示することで、香りがもつ印象や、リラックス効果、疲労回復効果、涼感効果などを利用した空間の快適性向上についての検討を進めたいと考えています。

◎鉄道関連空間の衛生環境の研究

 当研究室では、これまで鉄道設備内に存在する付着微生物や空間中を浮遊する微生物の解析を実施してきました。今年からは、また鉄道設備の付着微生物の解析に着手します。そのために、様々な鉄道設備で微生物のサンプリングを行う予定です。場合によっては最新の遺伝子解析を行う等、幅広い手法を応用しながら、鉄道を取巻く衛生環境に関して調査をします。これらの調査により、鉄道設備に関して、どのような微生物が、どのような場所に、どのような状態で存在しているか等についての知見を蓄積していきたいと考えています。

◎野生生物対策に関する研究

 鉄道での鹿と車両の衝撃事故は年々増加傾向にあります。これに対し、様々な対策が試みられていますが、効果の持続性や効果の評価に関する課題があります。昨年度は、線路周辺における鹿の行動調査、事故に影響すると考えられる周辺環境要因の抽出、および鹿の音に対する反応についての基礎的な試験を行いました。今年度も、調査した環境要因の分析や、対策の効果の確認と評価に関する調査、ならびに音を利用した鹿の危険な行動の制御の可能性を引き続き検討します。

◎その他の課題

 上記以外にも、鉄道と人・生物が関わる衛生学的な課題は数多く、これまでに作業環境の磁界評価、設備への鼠害・鳥害の調査、虫や落葉による運行障害の調査、沿線の雑草対策など、人から動植物、微生物に至るまで幅広く対応してきました。全ての課題に満点の対応ができるわけではありませんが、今後も出来る限り対応したいと考えています。

(生物工学グループ  池畑 政輝)