人間科学ニュース
2018年5月号(第215号)
技術革新と人間科学
「人間科学ニュース」をご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。本5月号は年度替わりの最初の号となりますので、次ページ以降に人間科学研究部の4つのグループ(研究室)の平成30年度の活動計画を紹介しております。人間科学研究部では「鉄道を利用する人、動かす人、それらの人をよく理解し、鉄道システムの安全性、快適性向上のための問題解決や対策提案を行い、豊かな社会の実現に貢献する」という目標に向けて活動を進めています。
さて、近年、情報技術の発達によって、例えば将棋で人工知能(AI)が一流のプロに勝利したり、プロがAIの棋譜を参考にしたりといったように、人間の能力を凌駕するようなニュースを目にします。2045年問題の真偽はよくわかりませんが、現在の潮流を見れば、これから先、AIはさらに進化し、多くの分野に、そして社会に急速に広がっていくことは間違いないと思われます。
18世紀後半に始まった産業革命のときには、技術革新により急速な経済発展を遂げたのですが、その際、人間と機械の機能配分の問題が浮き彫りになりました。生産性を重視するがあまり、機械が得意なことは人から機械へと作業を移し、一方で、機械が苦手なところは人に任せ、人が機械に合わせて作業するという考え方になってしまったということです。第4次産業革命という言葉がありますが、現在そしてこれから予測される技術革新が鉄道にも及んでくると思われ、新たな観点から機能配分の問題が再び生じることが予測されます。
このような問題を解決し、新しい技術が人を支援して豊かな社会を実現していくには、技術を開発する人そして使う人がともに人間中心設計という考え方を常に意識しておくことだと思われます。すなわち、技術を提供するうえで製品仕様、利用ルール、利用環境などについて、人を良く理解し、人の特性に十分配慮して設計することを忘れないことです。当たり前のようでいて、後回しにされがちなところでもあります。特にAIのように人間の機能に近い技術に対して機能配分を考える際には、広い視点から人の理解をさらに深めていくことが必要となるでしょう。今後、人間科学に求められることがそこにあり、そのためより多くの役だつ知見を提供していければと考えています。
(人間科学研究部長 小美濃 幸司)
平成30年度の活動計画(安全心理)
私たちのグループは、ヒューマンエラー事故の防止を目指して、鉄道従事員の心理的な資質や職務能力、これらに影響するさまざまな条件などを明らかにし、適性検査や作業環境整備、教育・訓練などに役立てるための研究を行っています。
○意思決定スキル
判断ミスをなくす教育訓練手法の開発を目指して、意思決定スキルを評価するための課題の開発に取り組んでいます。
昨年度は、意思決定の構成要素を明らかにした意思決定モデル案を試作しました。また一昨年度に試作した作業課題を実施中の脳機能画像から、リスクのある判断をしたとき固有の活動部位として前部島皮質が活動しない人ほどリスクのある判断をすることを明らかにしました。
本年度は意思決定モデルの各段階で必要となるスキルを明らかにすると共に、作業課題から得られる関連データを分析して新たな指標を開発します。
○先取喚呼による速度超過防止法
イギリスの鉄道界で使われているヒューマンエラー防止法に、運転に重要なことや忘れてはいけないことを声に出しながら運転する方法があります。先取喚呼は、これを応用した日本版です。
昨年度は、実験により先取喚呼に失念防止効果があることを確認しました。
今年度は、運転シミュレータを用いて、運転士に先取喚呼を試行していただき、速度超過防止に効果的で実践的な先取喚呼のやり方について提案します。また、先取喚呼には集中力低下防止効果もあると考えています。そこで、大学生を対象に、その効果についても検討します。
○コミュニケーションエラー防止手法
昨年度は、復唱や確認会話やその他の特徴的なコミュニケーションエラー防止対策を実施している鉄道事業者等17社を対象に、具体的な取り組み内容についてヒアリング調査を実施しました。
今年度は、事業者が自社の特徴に合わせたコミュニケーションエラー防止対策を検討する際の参考となるように、調査で得られた情報を職種や適用場面等で分類し、事例集を作成します。
また、実際に発生したコミュニケーションエラー事例の分析結果に基づき、コミュニケーションエラー防止を目的とした「情報伝達ミス防止訓練教材」を開発し、2018年4月から発売しています(図1)。この教材を使用した研修も承っております。
○危険感受性訓練
昨年度は、危険感受性(危険源への気づきやすさ)を高める訓練課題(案)として、危険を探そうという動機づけを高める訓練課題、危険を見逃さないための工夫を行う必要性の認識を高める訓練課題、危険源を見出すための知識を獲得する訓練課題の3つの課題を作成しました。
今年度は、まず大学生を対象として、作成した訓練課題の効果検証を行います。次に、乗務員の業務形態に合わせ修正した課題を、鉄道会社社員を対象に試行することを計画しています。また、工事関係社員を対象とした訓練課題(案)の開発に着手します。
○高齢(ベテラン)社員の活用に関する調査
高齢化が進み労働人口が減少する中で、経験や知識を持つ高齢(ベテラン)社員の活用は解決策の1つです。定年延長や嘱託による高齢社員の活用は、今後ますます進むことが予想されます。しかし、高齢社員が持つ技術を活かすための運用や、高齢社員に特化した教育や訓練方法については未整備です。そこで、鉄道事業者等へアンケート調査を実施し、職種別の年齢構成、定年や嘱託の制度、運用方法についての基礎的な情報や事例を収集していきます。
○運転適性検査
2007年に総研が提案した多重選択反応検査が、動力車操縦者運転免許の検査項目である反応速度検査として選択可能となりました。これを受けて検査装置の販売や検査の説明などを行っていく予定です。
また、これを機に、識別性検査D-1000をJR以外の鉄道事業者にも使っていただき、注意配分検査を使用しない検査体制を取ることもできるよう準備を進めていきます。
(安全心理グループ 井上 貴文)
平成30年度の活動計画(人間工学)
人間工学グループでは、“安全・安心”や“快適・便利”の視点で“鉄道を利用する人”と“鉄道で働く人”の環境の向上を目指し、人間の形態・運動・生理・心理・行動などの特性を調べ、評価手法や改善方法を提案しています。以下、平成30年度に取り組む研究の概要をご紹介します。
「安全・安心」の視点の研究
(1) 列車事故時の車内安全性評価
万が一、事故などにより車両に衝撃があったときの乗客の被害軽減を目的としています。今年度は、クロスシートに着座している乗客への影響を、シミュレーション、衝撃試験により評価し、安全対策について検討します。
(2) 生理指標による運転士の状態モニタリング
人の心的動揺時の脳内状態を客観的に捉えるため、脳活動の計測や簡易にこれを評価する手法の開発に取り組みます。最終的には運転士が良好な運転パフォーマンスを維持できるように支援するシステムの提案を目標としています。
(3) 運転士の覚醒レベル低下防止支援技術
画像処理技術等を用いた、運転士の覚醒レベル低下防止を支援するシステムの開発を目指しています。システムの機能として、眠気を検知し、効果的に注意喚起を行うことを考えています。
(4) 運転訓練支援
昨年度までに、運転士が前方に発生する異常事象を発見しやすい視線の動きを明らかにしました。今年度から、この知見を運転士指導に活用するために、新たに視線データをフィードバックするための訓練システムの開発に取り組みます。
(5) 運転情報記録の解析
本研究は、運転情報記録装置に蓄積された運転データを分析して、より効果的に事故防止や技量向上に繋げることを目的としています。運転データから、運転取り扱い誤りと関連する評価指標を抽出し、事故防止などへの活用の仕方について検討します。
(6) 列車火災時の避難誘導
列車火災の発生時に、より安全、迅速な旅客の避難誘導を行えるように、新たに、旅客への協力要請手法の研究に取り組みます。火災時の乗務員対応の見直しや、より効果的な火災訓練の計画に知見を活用して頂くことを目指しています。
(7) 踏切通行者の安全性向上
踏切を通行する歩行者を対象とし、踏切警報音などを工夫することで、警報開始後の踏切への進入を抑制する方策について実験的検討を行い、踏切の安全性向上に寄与することを目指しています。
「快適・便利」の視点の研究
(8) 車内温熱環境の評価
車内温熱環境に関しては、新たに、日射を考慮した快適性評価手法の研究に取り組みます。これにより、日射の影響低減による快適性の改善効果が定量的に評価できるようになり、快適な車内温熱環境の実現に貢献できるものと考えています。
(9) 弱視者などを考慮したトイレの視認性評価
駅のトイレは利用者が多く、弱視の方にとっても重要な設備ですが、使いやすいものとするためには、視認性に配慮した色彩計画が必要です。そこでトイレ空間の視認性評価方法と色彩計画の提案を目指した研究に取り組みます。
(10) 振動乗り心地評価システムの実用化
在来線の列車に搭載する様々な車上センサーと、これまで開発してきた乗り心地情報一元表示システムを活用し、車両や線区の特徴をより細かく分析できる振動乗り心地評価システムの実用化を目指します。
そのほかの研究や成果の水平展開と現場の支援
前記の研究だけでなく、鉄道の現場で発生する人間工学に関連するさまざまな問題を解決するための支援に取り組んでいきます。特に、お客さまの視点に立った異常時案内放送を実践するための教育訓練手法、車内の温熱環境評価、視覚障害者の安全性向上など、これまでの成果を現場にフィードバックさせるための取り組みもより一層推進していきます。
(人間工学グループ 水上 直樹)
平成30年度の活動計画(安全性解析)
安全性解析グループでは、鉄道事業者の安全マネジメントの支援と、係員や利用者の不安全行動の防止に効果的な対策を検討するための研究に取り組んでいます。
平成30年度に取り組む主な研究の概要を以下に紹介します。
◎踏切安全性向上
従来は踏切の設備的な特徴と事故の発生傾向から、個々の踏切の安全性を評価する研究に取り組んできました。平成29年度からは、これまでの研究成果を活かし、通行者の直前横断の抑止や滞留解消効果がより高い対策の検討に取り組んでいます。
平成30年度は、踏切の遮断かんの制御方法や踏切による情報提示と踏切を通行する歩行者の心理や行動との関係を把握するための検証実験(図1)を行ないます。
◎ルール遵守を促進する効果的な指導法のあり方
ルールは、内容さえ教えていれば、誰も必ず遵守するわけではありません。ルール違反(不安全行動)を防止するためには、その設定経緯、関係する作業全体の仕組み、遵守のメリットあるいは遵守しない場合のデメリット(リスク)等を理解することが必要です。
このような深い理解を促すためには、説明を受けるだけといった受け身ではなく、考えながら理解を深められるような演習を中心とした指導法が有効だと考えています。しかし、こうした指導法は実施側の手間がかかることも懸念されます。
そこで、新たな教育訓練手法を検討しているところですが、その際、モニター試験として現場管理者に講師を体験していただき、準備や実施に関する負担感が運用上の許容範囲内であることを確認しています。
◎安全マネジメントの支援
従来の研究成果を活用した実用的な安全マネジメント支援として、技術指導や研修・講演への講師派遣を行なっています。
①事故やエラーの背景要因の調査・分析の方法
➢ 事故の聞き取り調査手法
➢ ヒューマンファクター分析法
昨年販売を開始した新教材「鉄道総研式 ヒューマンファクター分析法マニュアル[中級編]」では、幅広い発想の手がかり情報を示す「なぜなぜ分析支援ツール」(図2)を付録CDに同封
②安全マネジメントの改善計画の検討に向けて
➢ 安全風土評価手法
➢ エラーリスク管理支援手法
➢ ヒヤリハット情報を用いたリスクマップ
③安全のためのコミュニケーションの促進に向けて
➢ 異常時コミュニケーション訓練
➢ 管理者のコミュニケーションスキル評価手法
また、平成30年度からは、事故や災害の被害を最小にするために有効な職場の取り組みや、事故やヒヤリハット情報から安全マネジメントで管理すべき情報に着目する仕組みづくりなどの研究を開始します。
(安全性解析グループ 宮地 由芽子)
平成30年度の活動計画(生物工学)
生物工学グループでは、鉄道利用者と鉄道で働く人々の健康や快適性の向上のために、鉄道分野において生物が関わる課題を解決するための活動をしています。駅や車内など鉄道環境中の電磁界・化学物質・微生物など、人の健康に関わる要因について調査を行います。また、快適性の向上のための清掃要件の抽出や、鹿と車両の衝撃事故に対する音を用いた対策の実用化研究など幅広い取り組みを行い、人を衛(まも)るための研究分野に取り組んでいきます。
◎電磁界の刺激作用の評価
強い電磁界へ人体がさらされると、神経が刺激されます。このため、鉄道においても一部規制が導入されています。ところが、この電磁界の神経刺激作用について、生物学的根拠は乏しいのが実態です。そのため、生物学的根拠を蓄積し、規制の根拠を検証することは、今後の規制のあり方の上で重要です。
当グループでは、特に細胞レベルでどの程度の強さで電磁界の影響がみられるか「いき値」を調べています。今年度は、周波数に対する「いき値」の特性に関する知見を得ることを目標にするほか、電磁界の健康リスク評価の動向についても調査を進めます。
◎鉄道環境の衛生モニタリング
将来的な感染症の抑制などの安全性や、清掃効率の向上に貢献する知見を得るため、鉄道環境に生息する微生物等に着目し、その分布や移り変わりの実態把握への取り組みを始めます。
環境中には多様な微生物等が生息していますが、それらの分布や、その分布の季節ごと、あるいは一日の中での移り変わりを明らかにすることにより、環境衛生の状態を向上させる検討ができます。この調査では、微生物等の最新の遺伝子解析技術を活用しながら多様な実態を把握していきます。今年度は、鉄道環境における遺伝子の採取とその分析方法の確立を目指します。
◎旅客設備の清掃品質に関する研究
駅設備の衛生環境について、臭気評価や微生物調査を実施してきたこれまでの実績を活かし、駅トイレの清掃品質を評価する研究に着手します。まず「利用者が現状の清掃に満足しているか」、また「どこまでを求めているか」、利用者意識を把握します。一方、微生物を指標として、清掃前後や清掃箇所での微生物量を調査します。両知見から、より効率的な駅トイレの清掃項目等を整理したいと考えています。
◎野生生物対策に関する研究
列車と鹿の衝撃事故は、依然として増加傾向にあり、柵などの既存対策を相補する新しい対策が求められています。これまでに、鹿自身が危険を知らせるための警戒声と鹿が嫌う犬の声を組み合わせた「忌避音」を独自に考案し、この音を列車から吹鳴することで、鹿の目撃回数が減少することを確認しました(図1)。
昨年度から始めている、鹿の種類や事故多発線区の様々な環境に対して、吹鳴方法や音の改良など、実用化に向けた取り組みを、引き続き進めていきます。
◎その他の課題
上記以外にも、鉄道と人・生物が関わる研究対象は数多くあります。例えば、鼠害・鳥害など野生小動物の課題、沿線の雑草対策などが挙げられるほか、磁界による埋め込み医療機器の誤作動を防ぐための作業環境の評価、鉄道空間の付加価値向上のための緑化や香りの利用の可能性、さらには、乗務員の眠気や疲労に関する新しい生化学指標に関する研究などです。
鉄道の安全・安心を少しでも高められるように、ご要望に応えていきたいと考えています。
(生物工学グループ 池畑 政輝)
「香り」を利用して暑さを和らげる
はじめに
私たちのグループでは、「香り」による鉄道空間の快適性向上の可能性を検討してきました。これまでに香りのする植物を用いて、緑化による利用者の心理的な疲労や暑さを和らげる効果1)2)を報告し、このニュースでも紹介してきました。ここでは、暑さを和らげる効果とその適用の可能性について、紹介します。
鉄道環境で温度の制御
鉄道は様々な空間の集合体で成り立っています。車両は半閉鎖の比較的小さな空間であるため、空調による温度の制御は比較的容易にできます。一方、駅は、地下ホーム、コンコースなどの半開放的な空間や地上のホームなどの開放空間で構成されている上、比較的大きな構造物であることから、温度を制御するのが難しく、大きなコストがかかります。古い構造物では制御装置が簡単には設置できず、温度の制御が難しい空間が残っている場合もあります。このような空間では、気温が高い季節で利用者や従事員が暑さの不快感を感じることになります。私たちは、このような空間で、香りを用いることにより、少しでも暑さを和らげることができないかと考えています。
心理的なミントの涼感
私たちの取組では、ミント(アルベンシスミント)の香りを感じることで、人が涼しさ(涼感)を感じることがわかっています。ミントの香りの量を変えた基礎実験においては、香りの強さとして「何のにおいかわかる弱いにおい~楽に感知できるにおい」程度の濃度を用いることで、受け入れられやすく、涼しさも感じさせることが可能でした。この効果は、他の研究と合わせて考えると、香りの物質により体が反応を起こすような「生理的」な変化ではなく、香りと結びつけられた体験などを思い起こして涼しさを感じる「心理的」なものが主であると推測されます。
香りをどのように使うか
例えば夏季の駅のコンコースや地下駅ホームなどでミントの香りを使ってみるのはいかがでしょうか。このように長く開放性の高い鉄道特有の空間に対しては、空間全体に均質な香りを漂わせるのではなく、複数箇所でスポット的にかつ間欠的に香りを提示できるように噴霧設備を設置することが考えられます(図1)。そのスポットを人が通過する際に香りを感じ、それとともに涼感が得られると考えられます。人の感覚は変化がないと低下するという特徴がありますので、間欠的に香りを感じる方が効果的です。
一方、待合室等の比較的閉鎖性の高い空間では、制御すべき空間が小さいため、コンコース等と比較して低濃度の香りを空間に均質になるように提示する方法が妥当だと考えます。また、滞在している人が香りに慣れないように、時間的に香りの強さを変えて提示するなどの工夫も必要と考えます。
香りの涼感のさらなる活用として、オフィスなどを対象とした研究で省エネ効果が報告されています。このような効果も、駅の待合室や駅オフィスなどで期待できます。
おわりに
今回の活用案は、実験室で行った基礎的な実験結果の内容に基づき、将来的な可能性について考察したものです。駅に近い環境では、様々なかく乱要因があるため、効果が小さくなる場合もありますが、比較的簡易に試行することが可能です。今年の夏の暑さ対策に向けて、一度香りの利用を検討してみてはいかがでしょうか。
参考文献
1)潮木、駅における植物の香りの利用、人間科学ニュース、No.194、2014
2)吉江ら、駅環境における香りの利用、人間科学ニュース、No.213、2018
(生物工学グループ 吉江 幸子)